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2006年01月21日
何故にサポーターは歌うのか。
週末になると暇さえあればサッカー場ばかり通ってしまうダメな僕は、この冬のオフシーズンが世間一般的な週末を過ごすチャンスである。マンションの行事に参加したりとか(いつも他の家族に任せっきり)、妻の愚痴を聞いてやったりとか(あんまり無いけどネ)、もうすぐ来るであろう固定資産税の支払いに頭を悩ます(やばい!お金が無い!)だとか、まあいろいろある。そんな中、四十になった僕は厄払いなるものにも行かなくちゃいけないようなので、最近ロクな事も無いし一つ神頼みでもするか!と思い立ち、行って来たのである。しかしそこは良く出来たもので、そんなものを日頃は馬鹿にしている僕に天罰かのように、予定日のこの日は見事な雪降りで最悪の天候。更に目的地は高尾山薬王院。おいおい遭難したらどうすんの。でも取りあえず行って来たのだ。
しかし、さすがにこれだけの悪天候ともなると高尾の山を登ってくる人は少ない。その行程の大半を占めるケーブルカーの中も土曜とは思えないほどのガラガラ。山頂駅で降りてもそこから寺までの参道を降りしきる雪の中を歩く人もまばらで、これはもしかしたら祈祷を受けるのは僕ら夫婦だけか?と思って本殿に着くとさにあらず。意外と多くの人(とは言え通常時に比べるととても少ないそうだ)がそこでは待っており、僕も受付を済ませそこに座り始まるのを待つ。
やがて太鼓が鳴り響き法螺貝を吹く僧侶を先頭にお坊さんがぞろぞろとお出まし。台座の上にずらっと並び、手を合わせ座る。こうなると人間とは不思議なものでこちらも厳粛な気持ちにさせられる。そして読経の開始。またこの声が本殿の天井に響き増幅し、更なる厳粛な気持ちにさせられてしまうのだな、これが。しかも台座の真ん中では火なんぞ炊いているもんだから尚更そうなる。
すっかり突発的な信徒と課した僕も一緒にご本尊の名前を唱えて下さいとの僧侶からの合図に他の人々と共にそれを唱え、それも終わると本尊にお参りしてお札を頂いてすっきりと厄落としをしてしまったのだ。
と、ここまでサッカーとはまるで関係無いことをずらずらと書いてきた訳だが、実はこのありがたい御護摩修行中に僕は”読経と火”という組み合わせにサッカーの応援スタイルとの類似性を見いだしていたのだ。そういや、欧州のサッカーをTVで見始めた頃、僕にはサポーターの歌う応援歌がまるで賛美歌のようにとても神聖な歌のように聞こえたりして、それがあの発煙筒の”火”と混ぜ合ってとても幻想的なものを見た気がしたりしたものである。そういや念仏と揶揄されたサポーターソングを持つクラブが日本にもあったな。さすがに日本ではスタジアム内で火は焚けないが、それでも十分、Jリーグでも同じように幻想的な気分にさせてくれる時もある。
以前、何故にサッカーの応援団(サポーター)は歌うのか?とサッカーにさほど興味の無い友人と議論になったことがある。その時は”盛り上げるため”とか”選手に勇気を与えるため”とかイマイチピンとこない答えに終止した。盛り上げるなら別に野球みたいにラッパでも良いのだから。
だが、人は祈るときに何かを唱え歌う。たぶんこれは古今東西変わらない風習である(調べた事ないけど)。サポーターの歌もまさにそれじゃないか。勝利への祈りのために歌うのだ。もちろん盛り上げようとかの趣旨もあるだろうが、その根幹は”祈り”ではないか?祈りのために歌うのである。
だから騒ぐためや盛り上げるためだけのゴール裏にはなにもない。最近の代表ゴール裏には祈りがない。あの低調な雰囲気はそこにあるのではないか。厄払いが僕に妙な答えを導き出してくれた。
因みに昨年買った高尾山薬王院の勝運守は湘南には全く効果が無かったのは同院のご本尊様にはナイショである。
投稿者 bellwin : 2006年01月21日 17:55