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2006年07月03日

中田英寿引退に寄せて

我が敬愛するKAZUが以前語ったインタビューを思い出した。

「自分がkazuであることを意識している。kazuを演じているところもある」

きっと中田英寿という希代なサッカー選手はは自分が”HIDE”である事よりも”中田英寿”であることにこだわったのではないか。そしてそれがこの日の結論であったと思う。

”中田英寿引退”、あまりにサプライズなニュースだった。

僕は、そのプレーぶりは好きだったがイチ選手として見た場合は彼に好意を持てなかった。あまりにコマーシャナリズムに乗りすぎ、その上であまりに人を小馬鹿にした態度を取りすぎるのが鼻についたからだ。「若いから」というエスケープルートもいい加減、20代も後半になると嘘くさく聞こえた。

良く彼を知る人は「本当の彼はそうじゃない」などと言うが、それは誰でも当たり前で、近親者の評価などまで低い人などはそういない。ちょっとたとえは悪いが、どんな極悪人でも愛する人からは「良い人」なのであり、その”愛する人”以外にどう振る舞うかでその人の格が決まると僕は思っている。特に中田のように注目される人間ならばそれは尚更必要で、ある意味有名税でもある。選ばれし者が背負わねばならないものなのかも知れない。こう書くとそれはあまりに酷だが。

kazuはきっとその事をとても理解していると思う。良い意味でも悪い意味でも三浦知良はkazuというものを演じることの出来る”大人”である。この場合の大人というのは、そこで打算というモノがはたらく人の事を指し、ある意味不純でさえある。これは素直と言う言葉とはある意味対極にある。しかしながらkazuは世間が作るkazuのイメージを体現することによって己を維持し、自分の気持ちを守ってきた。。そして、それは良い夫、良い妻、良い上司を演じるという、自分を守りながら社会を生きる上での必要不可欠な術ともある意味通じる。いわば大人の世界の話でさえある。

ところが中田はあくまで”中田英寿”にこだわったのだと僕は思う。彼はHIDEを演じることをしなかったし、したくなかったではないか。もしそうなら、彼はその意味ではとても素直だったと思う。世間が作るHIDEより自分の中にいる中田英寿にこだわったのだと思う。いわば生身で社会に勝負を仕掛けていたに等しい。そしてその自分にこだわる姿勢というものが世間の若者に支持された一番の原因だろう。

しかしながら世間にはそれを利用しようとする力があるのは当然で(それには良いも悪いもない、それが社会だからだ)、彼はその生身の中田英寿のままその力に乗ってしまったのだと思う。それが僕には残念だった。

そして更に残念なのは、30を過ぎた彼がこのまま自分にこだわるのか、それともある時から”HIDE”を演じるのか見たかった、ということである。もしかしたら、そのようになる自分がイヤで、この時期に引退を選んだのかもしれないのだが、それでも見てみたかった。

とにかく希代のフットボールプレイヤーがスパイクを脱いだ。こんな邪推で駄文で、そして少しの混乱の中でまとまらない文章の最後にこう書いても説得力がないが、とにかく最後にこれだけは書いておきたい。

「僕をワールドカップに連れて行ってくれて本当にありがとう」

お疲れ様でした。

投稿者 bellwin : 2006年07月03日 23:24

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