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2008年06月07日

競技の公平性

水泳の話で恐縮だが、とにかくスピード社製の水着は凄いようだ。こうも日本新が次々と出てしまうともはや選ぶ選ばないという次元ではなく、勝負をする端緒につくための必須アイテムであるということになってしまった。選ばないと負ける可能性が高まるという恐ろしくも悲しい現実が実証されてしまったのである。

だが、道具により勝負が左右されるというのは今に始まったことではなく、特にこのような最高レベルにおいてはもはや当たり前のことでさえある。北島の「泳ぐのは僕だ」というメッセージは、アスリートとしては実に誠実な言葉ではあるが、実際、道具で勝負が左右されるのも現代スポーツの一端ではあるわけで、その極端な例が今回噴出してしまった格好である。僕はあらゆるスポーツで世界記録が更新されるのは、もちろんそのアスリートの努力によるところも大きいとは思うが、やはりテクノロジーの進歩がそこに大きく寄与しているのは間違いがないと思っている。いや、むしろそちらのほうが貢献度は大きいのかもしれない。

しかもそのような用具はごく一部のトップアスリート、もしくは富む国の(世界的に見れば)平凡なアスリートしか使うことは許されないのが世の常だ。それによりトップアスリートはとんでもない記録を出し、富む国の世界レベルと比べたところの平凡なアスリートは想像以上の成果を手に入れることが可能なのだ。そして貧しい国の平凡なアスリートはまさに参加することに意義を見いだすしかオリンピックでは存在意義がなくなっていく。つまりはここにも格差問題が隠されているのである。もちろん、競技によっては下克上も起き得、だからこそスポーツは面白いのだが。

とにかく、この水着問題には現在の最高レベルのスポーツの持つ現実が凝縮されている。そして現代スポーツの”公平性の嘘”を見事に露出してしまったという意味で実に考えさせられる事象である。

それにしても世界でも有数といわれる日本のテクノロジーが束になっても敵わないのだから、さぞやこのイギリスメーカーは愉快だろうナ。

投稿者 bellwin : 2008年06月07日 18:37