町田ゼルビアが敵地で高崎を0-1で破り4位以内を確実にし、J2への昇格をほぼ決めたらしい。しかも決勝点を決めたのが苦労人の酒井良選手とは何というめぐり合わせ。選手の皆さん、サポーターの皆さん、フロントの皆さん、おめでとうございます。
しかしゼルビアがここまで来るとは10数年前は正直思わなかった。それほど劣悪な環境でもあり、期待もされていなかったとも思う。私が最初に見に行ったのは98年頃なのだが、その頃はまだ東京都1部。いや、もう少しで2部に落ちそうなとても弱いチームだったのだ。それがついにJリーグ入り。何とも感慨深い。
ここまで来るには実に多くの方の努力と苦労と想いがあったハズ。もちろん現在のフロントやサポーターも本当に頑張ったのだろう。ただ、僕はあのどうしようもない時代にこのクラブに情熱を傾けていた人もいたことを知って欲しいという想いから、敢えてこの喜ばしい日に昔話を書きたいとおもう。
僕のイメージというか記憶の中では、90年代当時のフロントや町田サッカー協会、ましてや選手にも、どうしてもJに上がりたい!という機運は無いように思った。そもそもクラブとしての何を目指すのかといった目標がまるで無いに等しかった。強いて言うと有ることが重要というような中途半端な体勢。むしろ外部のごく一部の人達の方が熱かった。
その中でもAさんとK君。この二人は特にそうだった。
Aさんは、最初は単なるサッカー好きとして、「自分の町にあるサッカークラブを観に行く」という、とても当たり前の事としてゼルビアを観に行っていたようだ。しかし観に来ているのは関係者を除けばいつも彼と彼の奥さんだけ。そうこうするうちに、チーム関係者から声をかけられ(かけ?)、いつのまにか都リーグの運営をする方に回っていた。
更にはその傍ら「町田ゼルビア」というクラブが存在するのだという事を、ネットを通じてアピールもしていた。実は僕もそのHPでクラブの存在を知り、試合を見に行ったぐらいだ。それでも観客は自分を含めて2人だったりという事も日常的だったのだが、それでも彼はほぼ毎節通っていた。もちろん最初に太鼓を叩いて声を出して応援したのも彼だった。だから彼こそが最初の町田ゼルビアの"サポーター"だったと思う。
そしてK君、かれはそのAさんが仕事の都合で町田の試合に関われなくなったぐらいから猛烈にチームをまさに"支え"た。
試合がある日はチームに水や食料等を差し入れ、もちろん応援もする。その費やした時間と金は半端無いだろう。そしたらいつの間にか今度はチームを支える立場、つまりはフロントに入り、ついには事務部門を取り仕切る事までやっていた。関東2部時代などは少ない運営部門としてオフィシャルグッズなども売っていたりして、その当時、久々に試合を見に行った僕が驚いたぐらいだ。もちろん、本業ではない。全てがボランティアで、ある。
彼はその後、JFLに入る直前まではフロントに手弁当で在籍していたが、やがて諸事情ありクラブに関わる事を辞めてしまう。これも町田ゼルビアというクラブが大きくなることによって仕方ない出来事だったのかも知れないが、ここまで町田が来れたのも彼の功績があったからこそだ。誰もJリーグ入りなんて本気で考えていなかった頃から彼だけはJリーグ入りを真剣に考えていたのだ。
その他にも僅かではあるが当時の町田を何とか強くしようと考えていた人達がいた。その多くの人たちとは既に連絡も取れないし、今現在ゼルビアのこの快挙をどう思っているかはわからない。だが、きっとどこかで今日のこのニュースを密かに喜び、そしてあの当時を懐かしがっているに違いない。皆さん、おめでとう。
最後に、下の写真は99年にホームの上の原広場(野津田陸上競技場をひと山超えたところにある。現在は改修されもう少しマシになった)で東京都一部リーグを闘うゼルビアの写真である。土のグランド、観客のいない環境、今もどの県のリーグ戦でも良く見る風景である。
しかしここが町田ゼルビアの原点なのだ。あの当時、ゼルビアは誰にも見向きもされない小さな小さなクラブだった。野津田競技場で試合をするなんて夢のまた夢だった。いつ無くなってもおかしくない草サッカーチームだった。
だから今、もし自分の町で応援する小さなクラブがいかにトップリーグから遠く及ばなくとも、それを応援することを決して諦めてはいけない。いつかは到達出来る。熱い奴らがいればきっと。僕はそう思う。なぜならそれが『Jリーグ』なのだから。